「あったこと」は消えない。
先日、夫に付き合って行った古文書の展示館で、
【悪霊や邪気を退治する神様 =鐘馗(しょうき)様】が描かれた掛け軸を目にして、
「欲しい!」と思いました^^
昆虫の触覚?(失礼💦)みたいな帽子?も、
「それは髭ですか?襟巻ですか?どっち??」みたいなモシャモシャ部分も^^;、
覇気のない💦どよーんとした眼差しも、
全く強くなさそうで^^;、
でも、悪霊や邪気を退治しちゃうんだもんね!って思うと、すごく、いいなぁ♡と思いました。笑
「神様っぽくないね・・」と夫に言ったら、
「伝説の人物だとも、実在した人物だとも言われてるみたいよ。後世で神様に昇格したんだろうね。」
なるほど。だから、神様っぽいオーラがないのか・・・(←失礼><)と納得しました。
男の子の健康な成長を願って、五月人形として飾る地域もあるようで、
今のように医療が発達していなかった時代には、
「鐘馗様におすがりする」しか、なすすべはない・・・っていう状況も、きっと沢山沢山あったでしょう・・・
そんな切実な祈りの集大成が、
この、人間味あふれる掛け軸のお姿になって残されてる気がしました。
音声を残すこと。ことばに書いて残すこと。写真に撮って残すこと。
スマートフォンはいま、思い出を記録する装置として、その役割をおおきくしている。
スマートフォンがなくなったり壊れたりしたら、思い出までもが消えてしまうような気持ちに、ぼくらはなる。でもね。
古賀史健さんのnote「その記憶が消えてしまったとしても。」より
メールやLINEが消えて、写真やビデオが消えて、ソーシャルメディアのぜんぶが消えてしまったとしても、それは「あった」んだ。
自分の大事なあの人は「いた」のだし、それは「あった」のだ。
今や生活必需品になってしまったスマートフォンですけど、
よく考えたら、私自身は、スマートフォンなんてないままで生きてた年月の方がずっと長くて^^;、
「あったこと」を、自分の中に「想い出」として残す・・・ことを、
身に付けているはずなのですけど、
つい先日も、バタバタしどおしで、新盆供養の際、写真を一枚も撮らなかったことに気づいて💦、
とりかえしがつかないことをした気持ちになっていました。
メールやLINEが消えて、写真やビデオが消えて、ソーシャルメディアのぜんぶが消えてしまったとしても、それは「あった」んだ。
自分の大事なあの人は「いた」のだし、それは「あった」のだ。
そう。ちゃんと「ここ」にあるから、いいんだよね。
「ここ」にある思いは、
鐘馗様がまとっている幾千万の「祈り」と同じ。
「あったこと」として、ずっと消えない。
ずっと消えないから、決して失わない。
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