「年をとると子供に戻る」は、多分違うな・・

「年をとると子供に戻る」は、多分違うな・・









私が高校生の頃のランチバッグ(お弁当を入れる袋)は、スヌーピーとチャーリー・ブラウンを筆頭に、『ピーナッツ』の登場キャラクターが大人気で、
私自身も、確かオレンジ色の地に、ルーシーが描かれたバッグを愛用していました。




いわゆる「おこちゃま漫画」とは一線を画して、『ピーナッツ』の登場人物はクールで、
時に哲学者のようでしたよね^^




大人になって、日本語訳は、詩人の谷川俊太郎さんによるものだったと知って、
「なるほど!」と、すごく合点がいったことを覚えています。




その谷川俊太郎さんが、対談の中で、



詩っていうのは、
盛らないの、ぜんぜん。
盛ると品が悪くなって、
詩じゃなくなっちゃうことが多いの。
言葉が足りないほうがいいって、
芭蕉もそんなことを言ってたんじゃないかな



と語っていらして、



確かに、思春期の私が、朴訥としたチャーリー・ブラウンに惹かれたのは、
その「言葉の足りなさ」だったのかも知れない・・と思いました。
言わないでいること・・・の方に、本当はもっと語りたいことがあるような気がして・・・
(ちなみに、谷川俊太郎さん自身は、『ピーナッツ』のキャラクター中では、ほとんど何もしゃべらない ウッドストック を一番お好きなのだそうです。笑)





もしかしたら、ミニマリスト・・と言われるライフスタイルも、
この「言葉が足りないことで完成する詩」と似たような美学があるのかも・・・・



でも、それって、「足りない」「不足している」という意識があってこそ・・ですよね。

例えば、ジャングルの密林で生まれ育ったとしたら、「何も持たない生活」が全てであって、
自らをミニマリストだと自覚することもないわけで、



豊かで物が溢れている生活を知っているからこそ、そこから削ぎ落し削ぎ落し、
「たったこれだけ残ればいい」と完成させた暮らしに美学が生まれる。





同じような理屈で、
よく耳にする「歳をとると子供に戻る」も、
この世のことなんて、なーーーんにも知らなかった子供のシンプルさと、
長く生きて、あれもこれも経験して、あれもこれも知った上で、「あ~、、もう、こんなの要らない。これも要らない。」と削ぎ落して、「たったこれだけ残ればいい」と完成させたシンプルさは、別物だと思うのです。





版画家の山本容子さんが、70歳を超えられて、
「子供の頃に使っていたクレパスで絵を描きたくなって・・・」とお話していらっしゃいました。


山本容子さんの自伝『マイストーリー』には、「そんな小説みたいなことある?!」と驚くような若き日の波乱万丈な日々が記されています。
人生の辛酸をなめ尽くしたと言える彼女が、再度クレパスを手にして描く作品を観てみたいな・・と、今とても思います。





↓こちらは、懐かしくなって検索して、ネット上で見つけたレトロな『ピーナツ』のトートバッグ。
私も全く同じものを持っていました。(通学カバンに入りきらない体操服やスケッチブックを入れるセカンドバッグにしていました。)

どうやらプレミアム価格で落札されたようですが、
どんな人が、どんな気持ちで購入されたんだろう。
「あの頃」の自分に寄り添って、足りない言葉の続きに思いを馳せてるのかも知れないなぁ♪





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