もう見過ごさない。

もう見過ごさない。


















昨日、昼食に立ち寄ったレストランから眺めた海は、
厚い雲の切れ間から差し込む日の光で、キラキラ輝いていました。






母が最後に外食した日、ほんの三口ほどしか食べれなかったけれど、
それでも、「美味しい。満足。」と嬉しそうに微笑んだお昼の定食を、昨日もいただきました♪











母が元気なころは、夫抜きで、私と母の二人で出かけることが多かったのですが、
母が酸素ボンベを携帯するようになってからは、車の乗り降りなどに夫の助力が必要になり、必ず三人で出かけていました。







食事をしながら、
最後に三人で訪れた日のことを、一つ一つ、答え合わせするみたいに、夫と二人で思い出しました。







レストランは1階部分が駐車場で、階段を上った2階部分がエントランスになった造りです。

「お義母さん、階段大丈夫ですか? おんぶしましょうか?」
と心配する夫に、

「大丈夫。上れます。その代わり、私のボンベを抱えて、私の肩を支えてちょうだい。あなた(←私)は、ボンベのキャリーを持って上がってちょうだい。」

と、気丈に指図して、途中息継ぎ休憩をしながらも、自分の足で階段をのぼった母。





食事を残してしまった時、
「食べたいって思うのに、口にすると、もういらない・・と思ってしまう。だから、こんなに痩せちゃって、あなた(←私)に似てきたでしょう? あ、違う。 私があなたを産んだんだから、あなたが私に似てきたでしょう? あら?でも、あなたの顔は変わってないから、やっぱり私があなたに似てきたの? 変ねぇ・・」
と、一人ボケツッコミみたいに^^;笑ってた母。








色んなことを話しながら、私一人じゃなく、夫も、母と過ごした最期の日々を共有してくれていることを、ありがたく思いました。







その後、父と弟が眠り、四十九日には母も納骨されるお墓をお参りした後、
お仏壇を置いている転居予定のマンションへ行きました。





昨日仏花に選んだのは、カラーとカーネーションです。
一週間に一度、2本ずつ、数本の花を買っていく私を、お花屋さんの店員さんが覚えて下さったようで、
昨日は、「いらっしゃいませ。」の後、「あ、こんにちは^^」と、言い添えて下さいました。










敬愛する山田ズーニーさんが「大人の文章教室」に登校された記事の一部をご紹介します♪


天を仰いで救いを求めるような境地を体験した時は、
たとえ苦痛であってもそれは、

「未知」。

いままで生きてきた自分の小さな枠組みから、
踏み出して「未知」を体験したということだ。

ガラッと世界が違って見える。
意外な人間の素晴らしさに出逢うのもこんな時で、

自分がもといた場所がよく見える。

そこから、自分にとってかけがえのないもの、
それ失っちゃあ生きていけないというものが、
見極められる。

分別がつく。

だから、平常に戻った時、
いままで見過ごしてきたような何気ない日常に、
輝きを見つけられるようになる。

追うのでなく、気づける。
気づいた時にはもう、ひたひたと満ちてくる。

多幸感。

基準値が整う。
だから、

苦しみの後には地に足のついた幸せがある。

苦しい時は信じていい、と
私は思う。





>何気ない日常にある多幸感

を、感じとれた気がする一日でした。




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