人生と犬生

1月24
昨日、執筆当番だった稲崎さんの「ほぼ日3分コラム」を読んで、とてもとても考えさせらた。
数週間ほど前だったと思う。
X(旧ツイッター)でこんな投稿を見かけた。「犬はじぶんのからだの痛みを
『そういうものである』として受け入れている」そんなふうな投稿だった気がする。
最近もう一度読みたいと思って、
いろんな方法で検索してみるも、
どこを探しても見つけられなかった。
うーん、いったいどこで見たんだろう‥‥。それからというもの、
そのときの微かな記憶を頼りに、
じぶんなりにつづきをいろいろ考えている。「そういうものである」。
人間社会だと、なんとも後ろ向きなことばだ。
もしも、ある若者が、
「どうしてこの世はこんなに不平等なんだ」と
問いかけてきたとして、
ぼくが「世界はそういうものである」と答えたとする。
それは「あきらめろ」にも聞こえるし、
そこには「思考停止」のニュアンスも含まれる。人間の話はさておき、犬はどうか。
犬は、この世のことには興味がない。
それどころか、
犬は「相対的に考えること」をしない。
不平等だのなんだの前に、
じぶんと他を比べるという発想が、
そもそも犬の世界には存在しないのだ。犬は、他の犬に興味は示す。
だけど他の犬の「生活」に興味はない。
「あなたは若くてうらやましい」とか
「よそと比べて散歩がうちは短くて‥‥」とかない。
じぶんが幸か不幸か、それすらもなく、
いまじぶんの身に起きていることを、
世界の「ぜんぶ」として淡々と受け入れている。犬は、相対的に考えないゆえ、
過去や未来といった時間の概念がないという。
なので「いのち」に限りがあることもわからない。
死への恐怖はなく、痛みについては、
不快や違和感はあるかもしれないけれど、
じぶんのケガや病気を嘆くことはない。
あらゆることを「そういうものである」と受け入れる。
人でいうと無我の境地だけれど、
犬そのものが「自然そのもの」だともいえる。犬と暮らして13年が過ぎた。
保護犬なのでほんとうの年齢はわからない。
うちに来たときに「2歳くらい」と決めたので、
いまで「15歳くらい」ということになる。「うちに来て幸せだったか?」と、
ときどき犬に聞きたくなることがある。
一生に一回だけ犬と会話ができるなら、
ずっとそのことを聞いてみたかった。
でも、最近それは無意味ということも知った。
幸も、不幸も、彼にはない。
ぼくの家での生活が彼のすべてであり、
彼の生きる世界には、
そもそも他の家なんてものは存在しない。最近、歳も歳だけに、
犬の歯の状態がけっこう悪化してきた。
「若いときからちゃんとケアしていれば」
と思ったときには、もう遅かった。
いま歯の数は半分くらいになり、
残りもかなり歯周病にやられている。
かっこいい自慢の犬歯も、
いまは片方だけになってしまった。ぼくは犬の歯磨きをするたびに、
「かわいそうなことをしちゃったなぁ」
「ちゃんとできなくてごめんな」と、
他と比較してはいつもクヨクヨしてしまう。
ただ、当の犬は、どこ吹く風。
残った歯でガツガツごはんを食べるし、
噛み応えのあるおやつがいまでも好きで、
残った歯を器用につかいながら、
彼なりのやり方でうれしそうに食べている。そんな犬を見ていると、
「あきらめ」でも「思考停止」でもない、
別の生き方がびんびんこっちに伝わってくる。
食べて、寝て、ぼくらになでてもらう。
そこには彼の「ぜんぶ」が詰まっている。
私は常に命のことを考えて日々を過ごしているから、
犬が生きる世界とは真逆のところにいるような気がするけれど💦、
でも、
食べて、寝て、ぼくらになでてもらう。
そこには彼の「ぜんぶ」が詰まっている。
という、人生ならぬ犬生は、私が目指す「今」にとてもよく似ている。
どんな風に生きても、究極の幸せの形は似てくるのかも知れない。
末っ子の娘の「弟」になったベントンが我が家へやってきた日の記念写真。

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