他者ばかり

他者ばかり





9月12日




友人の甥御さんが杜氏として醸造された日本酒をワイングラスで味わった。

20年ぶりに酒蔵を再始動させた若き杜氏さんの奮闘記を聞いた直後だったこともあって、胸がいっぱいになった。







森羅万象とはほとんど他者である。

いままでにあった歌、いまできている歌、もちろん、ほとんどの歌をぼくは知らない。だれかがつくって歌っている歌がたくさんある。

だれかたちがつくった映画、これまでに合った映画、いまつくっている映画、ぼくはほとんど観てない。世界中にたいへんな数の映画が存在している。

あらゆるものは、だれかさんがつくっている。有名な橋も、歴史的な建築も、名付けられてもいない橋も、ただの家も、どれもみんなだれかや、だれかたちがつくっている。

そして、それは、つまり、ほとんどすべてのものを、ぼくは知らないし、それをぼくはつくってない。

世界は、ぼくじゃない人たちのつくったもので、あふれているし、ぼくはそのことさえ知らない。知らないことさえ知らないでいるうちにも、世界はぼくじゃない人たちがつくっている。

いやいや、人がつくっているものばかりでなく。もともと自然がつくっているもののほうが多い。山も海も空も大地も月も星もゴミムシも、人がつくったものでなく、そこにある。

じぶんの主観のなかにすべてがあるのだけれど、ほんとは、じぶんなどいなくても、すべてがある。


~~~糸井重里さんの【今日のコラム】より抜粋~~~





知らなかった日本酒は、復興までの秘話を知ったことで、
特別な日本酒になった。




この世のほとんどは、知らないもの(=他者)で、
ほんの一握りの、特別なもの、大切なもの、を頼りに、
私達は日々を生きている。




長く生きて100年ほどの生涯の間に、「特別」「大切」だと思えるものは、本当に僅かだ。
大事にしなきゃいけない。



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