無力と祈りと「日常」

3月11日
昨日、お墓へ向かう途中の車中から見た海も、

墓地から見上げた空も、

今朝、一番に眺めた空も、

とても綺麗だった。
空や海を、綺麗だなぁ・・・と、穏やかな気持ちで眺めることのできる「日常」の幸せと有難さ。
毎年、気仙沼で3月11日を迎える糸井重里さんが、
最初の年とか次の年とかには、ここにやってきても、帰りの新幹線のなかでとても落ち込んでいたんですよね。
それは、「無力感」が理由であると、考えていました。
「じぶんには何もできない、できていない」という悲しみ。
これが落ち込みの原因だと思っていたのですが、ねぇ、無力感とか言えるほどのおまえかよ、ですよね。
いまにして思えば、無力は前提なんです。
ぼくなんかが無力であろうが怪力であろうがに関係なく、15年経ったいま、みんなが日常を取り戻している。
それは、一人ひとりは無力な人たちが、力を寄せ集めて、知恵を使ったり、機械やら道具を使ったりして、なんとかつくってきた「未来」だったんですよね。
ぼくの無力なんかも、そのうちの材料の一部なんですよ。
いまは、そんなふうに考えられるようになりました。
と、コラムに記していらした。
災害や悲劇に見舞われるたび、
私達は、「人間の無力さ」に落ち込む。
けれど、それでも、なんとか「日常」を取り戻そうとする気概で、
私達は「未来」を作ってきた。
今日、14時46分に黙祷した。
長く生きるというのは祈る時間が増えていくということなのだな。
~~~校正者・牟田郁子さんのXのポストより~~~
ながらえば、ながらうほど、
自分の中に、昇華しきれない思いが堆積していく。
理不尽だ、悲しい、切ない、愛しい、恋しい・・・
祈りは、それらの堆積した思いを圧縮してくれるような感覚がある。
きつきつに詰まっていた心中に、隙間を作ってくれる感じだ。
祈りは、無力な人間に与えられた救済なんだろう。
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