箱。
昨日母を見舞った時間のほとんど、母はうつらうつら眠っていて、
スープを飲んだ時と、ハンドマッサージをしてあげた時だけ、
「美味しい。」「気持ちいい。」と、柔らかな表情を見せてくれました。
そして、何度も息継ぎをしながら、途切れ途切れに、自分の病状のことを話してくれました。
今までだったら、孫やひ孫の話や、旬の美味しい食べ物の話や、昔話や、私達の近況についてなど、話題豊富におしゃべりしていたのに、
昨日は、母自身の「苦しい、つらい」で、エネルギーの全てを使い果たしていて、
それ以上の範囲に思いを馳せることができない状態のようでした。
母は病室そっくりの四角い箱の中に囚われてしまった・・・と思いました。
夫も、電話で報告した弟も、
「どこかがすごく痛いとか、劇的に容態が変わるとかではなくて、徐々に全ての臓器が弱っていって、呼吸が浅くなっていく経過だから、これ以上につらい状態にはならないよ。」と、私の不安を取り除こうとして、言ってくれるのですが、
私は、
あんなに広々していた母の世界が、小さな四角い箱に凝縮されていくことが悲しくて、
なんとか、体は不自由でも、心がもう少し自由にならないものか・・・と、一人納得できずにいました。
帰り際に、いつものように、手を握り、夫がハグをすると、
母が、
「私はもう、寿命だと思ってるから、あなたたちは心配しないで。
ほら、ジャイアント猪木さんみたいな強い人でも、寿命には勝てないんだから。」
と言いました。
「それは、アントニオ猪木さん・・・」と、私が訂正すると、
最後の最後に、初めて声を出して「あはは。」と笑ってくれました。
やっぱり、そういう、なんでもない言葉のやりとりで、あはは。と、心は綻びるのだと思います。
だから、やっぱり、「もうここで。」と言われても、箱から連れ出さなきゃ。
・・・箱の外。
私達は、色んな、方法で気持ちを切り替えることができる。
昨夜は、録画していた「鎌倉殿の13人」を観ながら、小栗旬さん演じる義時と一緒に、泣くことができたし、
帰路、夫と立ち寄ったカフェで、「は~・・・・」ってため息ついてみることもできた。
そういう風に、逃げ込めたり、休んだり、寝っ転がったりできる場所を持てることは、
今の自分に余力があることの証明なのだと気づきました。
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