諸事情により、しばらくブログをお休みします。
昨日、
台風に閉じ込められて、自宅で遊ぶ孫二人の様子を、長女が家族LINEで送ってくれた。
7月の終わりに九州を訪れた際に体験したバーベキューが楽しかったようで^^、
文房具を動員した^^;「バーべキューごっこ」。
「おままごと」の道具は揃わなくても、サインペンやボールペンが、食材にもなれば、お箸にだってなる。
だいたい、人は「不幸」を意識しやすい。
ほっとけば「不幸」を感じ、「不幸」を思い、
「不幸」について考えをめぐらせるものである。
基本的に、人間は「不幸」を身にまとうのが得意なのだ。
しかし、「幸福」であることには意志の力が働いている。
そのこと自体が、その人の為す「徳」だというわけだ。
そう思うなぁ。
幸福を感じている人を見るのは、それだけでうれしくなる。
大きいとか小さいとか関係ない、
それぞれの人の「幸福」というものは、
その人がそうありたいと思って得た大切な光だ。
少し前にアップされた糸井重里さんの『今日のダーリン』は、
「同じ環境の中でも、何を選ぶかで、幸不幸は決まる」が持論の、私へのエールに思えた。
「台風で外で遊べないし、お家の中のオモチャは飽きちゃったし・・・」と不足に目を向けて、つまらない一日を送るのも、
「外出れないなら、お家でいっぱい遊ぼう!お絵かき用のペン使って、バーベキューごっこしよう!」と楽しむことも、
どっちだってできることで、
どっちを選ぶかは、自分次第だ。
思い返すと、子供の頃は、「不足」を嘆くよりも、「あるもの」を創意工夫することが得意だった気がする。
だって、そのほうが楽しいから♪
なのに、大人になるにつれ、不足や不平を足掛かりに、不幸を身にまとうことが得意になって、
「幸せ・楽しい」の方向に意識を切り替えるには労力を要するようになる。
その労力を、糸井さんは「意志の力」だと表現している。
「安易に不幸を身にまとうことをせず、意志の力を発動して、幸福な方へ舵を切るぞ!」と、決意し、手にした「幸福」は、
「徳」であり、「そうありたいと願って得た大切な光」なのだ。
あちらこちらに転がっている「不幸の種」を、一粒も踏むことなく暮らせる人なんていない。
自分を「幸せな人間だ」と思うか、「不幸な人間だ」と思うかは、
自分の選択に委ねられている。
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