「老い」や「死」を、ずっと考えてる
子供の頃から、
「老い」や「死」を考えることが怖くて、
そっち方面^^;に気持ちが向くと、「あ~~!ダメダメ!考えない!><」と、
無理やり、気を散らすようにしていた。
けど、不思議なことに、
母が亡くなって、一家の長の代理(?^^;)として、お仏壇とお墓を守るようになり、
毎日 過去帳をめくって、
「今日は、ひいおじいちゃんの月命日なのかぁ・・」と、生前は会ったことのない曽祖父の遺影を眺めて、どんな人だったのかなぁ・・と想像したり、
戦時中に幼くして亡くなった叔父や叔母の命日に、お菓子をお供えして手を合わせたりしていると、
「死」は、特別なことじゃなく、朝が来て、夜になる・・と同じくらい、当たり前のことなのだなぁ・・という思いが強くなって、
また、自分自身が、「去年の秋と今年の秋じゃ、肌の張りが違うわ💦」と^^;、如実に「老い」を実体験する年齢になったことも重なり、
いつの間にか、
今夜の献立どうしよう・・と考えるのと同じレベルで、
普通に、カジュアルに、
この先の「老い」や「死」を捉えられるようになった。
若き日の私は、
自分がいつか「老い」や「死」に向かい合わなければいけない時が来るとしたら、
それは、悲惨で、苦しい状況なのだろうと、漠然と覚悟していたので、
こんな風に、ネガティブな感覚ではなく、
カジュアル(?^^;)に、自然に、「老い」や「死」と対峙できていることは、
嬉しい驚きだ。
だから、個人的には、好きな食べ物や、旅の思い出を語り合うのと同じカジュアルさで、「老い」や「死」についても、近しい人たちと語り合ってみたい思いがある。
とはいえ、
実際は、「老い」や「死」をテーマに語り合う・・・というきっかけは作りづらく💦、実現できないままだ。
そんな矢先に、
養老孟司さんが、同世代の誰かと「生」や「死」や「老い」について語りたいよ~!と呼びかけ、
田原総一朗さんが、「それならば、私が!」と手を挙げるかたちで、
お二人の対談集『老人の知恵』がこの度出版された。
お二人は、私より20年ほど早いお生まれだから、
人生の先輩同士で語り合う「老い」と「死」を、拝聴させていただく形になるけれど、
注文した本の到着を心待ちにしている。
今、食卓とお仏壇には、ローゼルを飾っている。
「ほら、綺麗でしょ。」と語りかけてみるけど、
仏壇に収められた位牌のほとんどの人達の生前を私は知らない。
人は、順番に、自分の生を終え、
その度に、残された人たちの記憶の中から、先人の生きた足取りが消えていく。
いなくならないで・・・と、どれほど願っても、
皆、、私も、、いなくなる。
だから、互いに、
「いなくならない」と言いながら、最良の別れに向けた努力を重ねる。
(高倉大希さんが note に記した言葉。なんて美しく「生」を表した言葉だろう。)
「いなくならないよ・・」と、互いに寄り添いながら、必ずやってくる別れに向けて、
最良の努力を重ねていく・・・
そんな風に老いていきたい。そんな風に死をむかえたい。
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