存在価値

7月30日
メロンをいただいた。

子供のころからずっと、メロンは特別な果物。
お中元でいただいたり、
同居していた祖母へのお見舞いに届いたメロンのお裾分けをもらうラッキーチャンスにしか口にできなかった。
風邪で発熱して、食欲がないときも、
林檎やバナナや桃や梨は登場したけれど、メロンが出てくることはなかった。
だから、大人になっても、「メロンは別格」なイメージが続いていて、
「そもそも自分のために買っていい果物じゃない」と、「自分用はダメ縛り」が残っている💦
そんなメロンを丸ごといただいた。
箱から出してみたら、ヘタの部分にパール(フェイクパール)の飾りが結ばれていて、
「さすがメロン・・・」と胸熱だった*_*

4分の1切れを朝食に食べた。

故長嶋茂雄さんは、夕食後に、半分に切ったメロンの中央にブランデーを注いで食べていた・・・という逸話を聞いたことがある。
その話を思い出しながら、
こんなに美味しいもの、4分の1切れだって贅沢に思えるのに、
一度に2分の1個も食べちゃうんだ・・・
こんなに美味しいのに、ブランデーかけて味変しちゃうんだ・・・
と、勝手に憤慨した^^; そのくらい、禁断のメロンは美味しかった♪
昼食は、ホワイトセロリをトッピングしたシラスとレッドオニオンと万願寺唐辛子のフィットチーネを作った。

パスタソースを、レモンやアンチョビペーストで味付けしながら、
メロンを筆頭に、全く味付けなしで、パーフェクトに美味しい果物たちって、本当にすごいなぁ!と思った。
もちろん、人が手をかけ、品種改良を行い、より美味しい種が出来上がってきた結果なのだろうけれど、
それにしても、「そのままで美味しいもの」として存在するってことは、「食べられてこその価値」なわけだから、
「自分の存在価値=美味しく食べられること」を、ゆるぎなく完遂するありさまがすごすぎる><
保育園の現役の園長先生(さとみ園長)が、
卒園した子たちに、「園で覚えていること」を聞いてみました。
「先生が、抱っこしてくれたこと」(8歳)
「すべり台が、こわかったこと」(10歳)
「おともだちと、けんかしたこと」(12歳)
「給食のカレーの匂い」(15歳)
「先生が、笑ってたこと」(25歳)
誰ひとり、行事の豪華さも、制作物の完成度も、覚えていませんでした。
大人が必死で用意しているものは、意外と、記憶に残っていないんよ
と、Xにポストしていらした。
私は人間に生まれ、
メロンのような明確な「存在価値」を自覚できないまま、
前期高齢者になるまで生きてきた💦
でも、
さとみ園長先生が伝えてくれた「卒園した子たちが覚えていること」は、
園での思い出に限らず、
そのまま、「これまでの人生で記憶に残ること」に範囲を広げても、
同じような回答になるのだろうと思う。
私たちのうちに残るのは、「日々の何でもないような出来事を自分がどんな風に捉えてきたのか」という記憶・・・
以前のブログに記したように、
「自分がどんな風に捉えるか」という「主観」の積み重なりが、私たちが生きるということで、
「主観」こそが、私という人間の存在価値なのだと思う。
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