親孝行させない
昨日は、今年最後の母の月命日で、
夫の帰宅を待ってお墓参りした。
車窓から見える、陽が傾きかけた冬の海の景色は、昨日もとても綺麗で、
この海を見たくて、父は改葬したのだなぁ・・・と、改めて、存命中の父の気持ちを思った。
夜が始まりかけた空には、優しい色の半月が出ていた。
何とか日暮れ前に墓地に到着し、
両親、弟、ご先祖様に手を合わせた。
墓地からも、優しい半月が見えた。
生前母は、
「困った時には、私の方からSOSを出すから、その時は助けてちょうだい。でもそれ以外の気遣いは不要だから。」
と、繰り返し口にしていた。
当時の私は、自分が遠ざけられているような寂しさもあり、複雑な思いで受け留めていたけど、
母を亡くし、「娘」としての立場がなくなり、
「娘たちの母親」の立場だけになった今、
母の気持ちがよくわかる。わかって、滲みる。
翻訳家の村井理子さんとクォン・ナミさんの往復書簡の中で、
クォン・ナミさんが、
娘は他の子より親孝行なほうです。
でもね、いくらいい子でも、いくら大きくなっても子どもは油断禁物。
ある日、ひとりで泣いている声が靜河の部屋から聞こえたので、訳を聞いたんです。
そうしたら、「私が望んでいるのはただ、お母さんが幸せであることだけ。お母さんが幸せになるためならお金を使うことは惜しくない。でもお母さんを幸せにしなきゃいけないというプレッシャーがとてもつらいの」と言うのです。
まるでハンマーで殴られたような気分でした。
その気持ちは誰よりも私がよくわかっていたからです。
自分で言うのもなんですが、私も親孝行な娘だったので。
親に頼まれたわけでもないのに、自分が好きで親孝行をしていましたが、それでも親孝行しなければと思ってしまう状況を重く感じることがよくありました。
それを娘も感じていたのだと知り、もう、複雑な気持ち。
理子さん、そのとき私は改めて気づきました。
親孝行する人は必ずしも幸せではないことに。
〝親は親で自分の人生を生きるだろう、私は私だよ″って何も考えずに生きる人が幸せな人なんだと。
だから将来、もしも双子の息子さんが理子さんに何もしてくれなくても、「ああ、息子たちは私のこと気にせずに気楽に幸せに暮らしているんだ、よかった」と思ってください。
と、ご自身が母親の立場になって思うことを、
村井理子さんに伝えていらした。
亡き母も、
「私は自分の人生を生きるから、心配しないで、あなたはあなたの人生を生きなさい。」と私に伝えてくれていたのだろう。
クォン・ナミさんがおっしゃる「親孝行する人は必ずしも幸せではない」の言葉の裏側にある「親孝行させない自分でいたい」と願う気持ちは、
この先、人生の最終章を歩む杖となる思いだ。
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