「もしか」の思い。

「もしか」の思い。








そろそろアイスコーヒーの出番かな?と思う頃になると、
我が家の冷蔵庫には水出しコーヒーが常備されます。



1滴1滴、抽出するので、ほんの500㏄ほどでも、数時間かかってしまうので、
来客があってから・・・では間に合わなくて、
前もって作っておいて、冷蔵庫に保管しています。



ただ、2日もすると香りが逃げてしまうので、余ってしまったものはゼラチン入れてゼリーにして、再度新しい水出しコーヒーを作ります。



今も、ピチャン、ピチャンと、一滴ずつ、コーヒーが落ちる音がしています。







夫は真夏でもホットコーヒーを飲む人だし、
私は、ある願掛けをしていて、コーヒー断ちしているので、



ほぼほぼコーヒーゼリーになる運命の水出しコーヒーなのですけど^^;
それでも、
作り続けるのはなぜだろう・・・と、ちょっと自分でも不思議な気持ちだったのですが、



山田ズーニーさんのテキストを読んで、「あぁ・・そういうことかぁ・・」と腑に落ちました。



少し長い文章ですが、以下に全文引用させていただきます。



「もしか」という不思議なまんじゅうがある。

「もしかまんじゅう」は決して見ることができない。

見たら、もうそれは、
「もしかまんじゅう」ではなくなる。

そして、

「もしかまんじゅう的なもの」は、あなたにもある。

…………………………

先月、
ふるさとに帰省して、
母と買い物に出た時のこと、

母が、和菓子の前でとまった。

季節限定の特別な和菓子、
1個、1個、プラスチックケースに包まれ、
見るからに高級そう、

母はそれを買うと言う。

母はふだん質素だ。
食べるものも、着るものの、暮らしぶりも。
つつましいことこの上ない。
いつもなら決して買わない贅沢な菓子だ。

私はピン! ときた。

東京からはるばる帰った娘の私に、
何か特別なもてなしをしてやりたいのだろう。

年金暮らしの母に余計な出費をさせてはと、
「いい、いらない」という私と、
高齢で何もしてやれないせめてこれぐらいは、
と願う母と、はげしい攻防のすえ、
そんなに言うんならと私が折れた。

母は、指折り、買う個数を考え始めた。

「‥‥それから、
お姉ちゃんに1個、お義兄ちゃんに1個‥‥」

と、母が、
姉夫婦(私の実の姉)のぶんを数えに入れたので、
私はびっくりした!

「えっ!!! お姉ちゃんたち来るの?!」

車で2時間離れた街に暮らす姉夫婦が来るとは、
まったく聞いていない。
来るなら姉夫婦のぶんのごはんの買い物が要る。

だから母に、来るのか聞くと、

「お姉ちゃんたち、
この前、来る言うとったのに、
体調が悪うなって来れんかったんよ」

と母の返事はあいまい。
私は、

「で? あした来るん? 来んのん?」

と詰め寄るが、
母は、

「お姉ちゃんらが来るときはたいてい、
日曜の朝9時ごろ電話をくれて昼ごろ来るんよ」

と、煮え切らない。
たしかに明日は日曜、

私は、「明日来るか聞いてみる」と、
その場で、姉に、LINEを打った。

けど、母の買う覚悟は堅かった。

母は姉の返事を待つ気もなく、
きっぱり! と8個、和菓子を買った。

姉の1個、義兄の1個を
きっぱりと数に入れ、
近所のYさんのぶん2個も数に入れた。

あとになって姉から返事が来たけど、
やっぱり姉も、驚いていて、
「いいや行かんよ。
行くとは言ってないよ。」
とポカンとしていた。

私は、わからなかった。

「おかあちゃんは、なんで?」

母は、
ふだんあれだけつつましい食生活をしているのに、
自分のために絶対こんな贅沢なんてしないのに、
お金に余裕はないのに、
たまにお金を手にしても人のためにつかってしまって
いつも自分の手元には残らないのに、

どうしてこんな高級なお菓子を、

それも、日持ちのしないお菓子を、

来るかどうかわからない人のぶんまで、

なぜ、おおばんぶるまいするのか?

母は、家につくなり、
近所のYさんへ和菓子を持って行った。

Yさんと母が話すようすを
窓から見ていた私は、
なぜか心が温かくなっていった。

Yさんが、ご主人を亡くしたことを後で聞いた。

母はきっと、
Yさんに1個、ご主人にもお供えで1個、
2人で一緒に食べてね、のつもりだったんだろう。

母は苦しんでいる人をほっておけない。

母がこれまでも、これからも、
人生でどれだけ多くの苦しんでいる人のために
働いてきたんだろうと思い知らされるひとコマだった。

翌日、

母は来客に、
例の高級和菓子を出した。

そのあと母自身が食べるぶんを持ってきた。

それを見て私はギョッ! とした。

それは、
あきらかに見てくれがわるい。

きのう買った高級和菓子と
同じ商品にはちがいないが、
見るからに古く、
“ずっと冷凍庫に眠っていました”
“さっきレンジで解凍されました”
という顔をしていた。

「ああ、ああ! そうか!」

私は、帰省してから不可解に思っていたことが、
すべてつながって合点がいった。

実家に母が食べきれない
15個入りのりんごの箱があったことも、

来るとは誰も言っていない姉夫婦のために
母が身銭をきって高級和菓子を買ったことも、

母がご近所にも、親戚にも、
めちゃくちゃ好かれていることも。

「これは、“もしか”のまんじゅう、だったんだ!」

もしかすると、
日曜日に姉夫婦が来る、かもしれない。

その時に、とっておきのおいしいものを
なんの気兼ねもなく食べさせたい。

もし数が足りなかったり、
その人のぶんがなかったり、
寂しい思いをさせたら、
「買っておけば」と後悔したら、

母の方が苦しくてやりきれない。

だから、1%でも来る可能性があるなら、
その人のぶんも必ず買う。

それが母の流儀だ。

戦中食べるものがなかったり、
戦後に子どもを育てる中で、
助けたり助けられたりして、

食べるものだけは、
だれにも、1ミリも、寂しい思いをさせない、は、
母の譲れない美意識だ。

母が食べきれない15個入りのりんごの箱は、
もしか正月に私が帰省したら喜んで食べるかも、
と買っておいてくれたものだった、と後で知った。

私は風邪をひいて正月には帰れなかった。

そんなふうに、
とっておきのものを食べるシーンで、
「もしかするとこの人も
ふいにたずねてくるかもしれない」、
「もしかするとあの人も」、

ほぼ来ないだろうけど、もしかして来たとき、

「ああ、食べさせてあげたかった」

と悔いが残るくらいなら、
余分に買ったほうがずっと母の心は満たされる。

買い物は遠く、バスは日に2便しかなく、
高齢の母にはひと苦労なのだ。

そうして、食べられなかった「もしかまんじゅう」は、
相手に知らされぬまま、
つぎつぎと冷凍庫にたまっていく。

姉も、私も、知らぬまま、
「もしかの菓子」はなんども用意されていたのだ。

そしてなんども出番が来ず冷凍庫に行ったのだろう。

母の冷凍庫には、
出番がこなかった母のぬくもりが眠っている。

「もしかのまんじゅう」的なものは、誰にもある。

目には見えないだけで、本人気づいてないだけで。

学校の先生は、
「もしか、こういうことがわからない生徒もいるかも」
と授業では使わないかもしれない資料を準備する。
1人でるか、でないか、の生徒のために、
1時間、2時間とかけて。

行きつけのお店では、
「もしかして、
あのご家族がそろそろくるころ、
みんな大好きだから、
あのとっておきのおいしいお肉を
頑張って多めに仕入れておこう」
と準備する。

雪が降った都心の通勤路では、
「もしかして、だれかが滑ってケガをしてはいけない」
と早朝から街の有志がなれない雪かきをしてくれている。

授業では、全員よく理解ができたので、
もしかわからない生徒のための特別解説は
出番がなくなり、

ご家族は事情があってお店に来られなくなり、
出番を失ったお肉は、別のメニューにつかわれ、

雪で路面凍結を恐れた会社が、
出社は午後でいい、または、テレワークに切り替えて
だれも雪かきした道を通ることがなかったとしても、

「もしかの想いは、確かにこの世に存在する」

見えないだけで、
あなたが知らないだけで、

きょうもあなたを守っている

と私は思う。




私が、「もしか」の思いで、「もしかコーヒー(?^^;)」を準備していることを、
この世の誰一人、知らないように、



私が知らない、私には見えない、「もしかまんじゅう」が、どこかで私を待っていてくれるのかも知れない・・と思うと、


心がポッと温かくなる気がします。




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